大芸大哲学コミュニティ「すみれの会」活動報告

議事録や口頭発表の要旨を公開します

第二回公開討論会をしました

 

雨木さんの発表が延期しているので、第二回公開討論会をしました

https://youtu.be/U-XiuUoE4Qc

一部音声の配信ができず、無音になっている個所がありました。今後気を付けます。

 

今回は見学&初参加の織沢さん、うすけさん、アルパカさんがいらっしゃいました。みなさん今後も参加してくださるみたいで良かったです。(現在すみれの会は、LINEグループに入ったら入会という雰囲気になっています。)

 

今回は初参加の方が多かったので、議題をあらかじめ設けることはせず「どんな本、評論を読みますか?」というお話から、次のような議題へ発展させていくことができました。

  • 評論を読むことの重要性をどう考えるか、フィクションをどう読むか(先行情報なしに読むか、小説の巻末の「解説」の必要性、国語の"正しい"回答との関連性など)
  • ニーチェラカン、真理や神としての「女」という概念
  • 「男女をどう見分けますか?」という質問に対する反応、ジェンダー、属性(社会的スティグマ)と配慮の問題
  • 社会の種類によって特定の配慮が必要なのではないか→「グローバル化」分断、融和と、その概念の解体(ヘーゲル的な捉え方と、現象の偶然的な捉え方)

 テーマに一貫性はないですが、みなさんの色んな引き出しが見れたのでよかったかなと思います。

 

雨木さんの発表にもう少し時間がかかるようなので、次回は明後日の7月14日(火曜)18:30~第三回討論会を行います。よろしくおねがいします。

第一回論考発表会をしました【要旨公開】

https://youtu.be/dWRsrTt-h_0

 

6/1日に第一回論考発表会をしました。

ライブ放送動画はしばらく限定公開されます。 

 

ライブで言っていた通り、動画で表示していた要旨を公開したいと思います。

いくつかの文章に修正点があり、動画との相違があります。

また「反出生主義と認識論」というタイトルで予告しましたが、いざ原稿を書き終えてみると、カントの話は結構すっ飛ばして存在論の話をしていたので、「反出生主義と存在論」としておきました。

また動画で指摘のあった脚注ですが、基礎的な用語についての説明は煩雑になるので原稿の中ではなくこちらで書きます。

  • シニフィアン(signifiant)…言語学者ソシュールが提唱した概念です。何かを表象する記号という意味で、意味されるものはシーニュ(signe)と呼ばれます。日本語訳すると、表象という言葉が近いです。ある記号、たとえばネコは、別の記号、「イヌ」でないという差異(differance)が重要であり、音声や文字の中に、表象される意味との関連性はありません。言葉は原初的な意味の世界と疎外されており、言葉どうしの関係や、用法の慣習、交換(会話の成立)によってのみ価値を認められています。系譜に依存し、意味から疎外されるということです。
  • クィア理論…テレサ・デ・ラウレティスが提唱した概念ですQueerは、奇妙な、おかしい、といった意味で、もともと同性愛者への侮蔑、差別的な言葉でした。(動画内でクエスチョンの…と言ってますが、誤りです。)これを開き直って肯定的に使用し、異性愛、同性愛の二元性を脱構築するという、挑戦的な思想です。セクシュアリティの問題を超えて、一つの立場に依存せず、そもそも立場という概念に懐疑的な考え方を、クィア理論と呼んだりします。
  • 優生思想…優れた命と、そうではない命を区別する思想です。有名な例として、ナチス・ドイツではユダヤ人へのホロコーストやT4作戦を行いました。これは戦時中に限らず共同体にまとわりつく一般的な問題であり、たとえば相模原障害者施設殺傷事件の植松聖被告の主張もその一端です。

 

ちなみにpdfも公開してます


1drv.ms


 ここから要旨がはじまります。

 

「反出生主義と存在論―論理パズルからクィアな生へ―」

発表 2020年6月1日

 すみれの会 野行

反出生主義とは?

反出生主義の示す範囲や、実践の仕方は人によってまちまちであるが、おおよそ新しい命の存在を生み出すことに反対する立場を示す。起源は定かではなく、古くはギリシア神話や、『スッタニパータ』におけるブッダの言葉にも見られる。

シレノスはミダス王によって捕えられたとき、自分を逃がしてくれたお礼に次のようなことを王に教えたと言われている。人間にとって最善のことは生まれてこないことであり、その次に良いことは出来るだけ早く死ぬことである。エウリピデスはこの考え方を「クレスフォンテス」という劇の中で使っている。「なぜなら、我々は新しい子供が生まれたなら、その家に集まって、その子がこれから出会う様々な不幸を思って、悲しむべきである。しかし、死ぬことでこの世の労苦に終止符を打った人を、我々は友人として、喜びと賞賛をもって、送りだすべきである」(キケロトゥスクルム荘対談集1』<http://hgonzaemon.g1.xrea.com/Tusculum1_1.html>花房友一訳、最終アクセス2020/05/30

 

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況(いわん)や朋友(ほうゆう)をや。犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(『ブッダのことば』中村元訳、1984)

おもに人の子供について言うが、動物やAIについて同様に語られることもある。主張の根拠も様々である。主な二つに分けて取り上げる。

負の功利主義や、幸せと苦しみの非対称性による分析哲学的な立場

N. スマートやポッパーは功利主義の否定的な定式化にとりくみ、負の功利主義(Negative utilitarianism)というタームを掲げた。

ある支配者が、一瞬で痛みなく人類を滅亡させる兵器を統制すると仮定せよ。今、滅亡が提案される日に生きる全ての人が自然のなりいきで死ぬ前に、いくらか苦しみが生じることは経験的に明らかである。故に、その兵器の行使は、確かに苦しみを減らすはずで、負の功利主義の根拠からしてその支配者の道徳的な責務となるだろう。(R.N.SMART「Negative Utilitarianism」(1958)『Mind』 67,私訳)

またD.ベネターは、『Better Never to Have Been』(2006)の邦訳が2017年に出版され、本邦でも良く知られている反出生主義者である。以下「考え得るすべての害悪」(D.ベネター,『現代思想47』,小島和夫訳,2019)より簡単に引用する。

・苦の存在は悪い
・快の存在は良い
・苦の不在は良い
・快の不在は、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人はいない場合に限り、悪くはない

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図1(D.ベネター,2019)

存在することと決して存在しないこととを比較するために、この非対称性を用いることができる。この非対称性を「基本的非対称性」と呼ぼう[図1]

…この基本的非対称性を保持すべきひとつの理由は、それが広く受け入れられている他の四つの非対称性の最善の説明となるからである。

i) 生殖に関する義務の非対称性

悲惨な人生を送るだろう人々を生み出すことを避ける義務はあっても、幸福な人生を送るだろう人々を生み出さなければならない義務はない。

ii) 予想される利益の非対称性

子供を持つ理由として、その子供がそれによって利益を受けるだろうということをあげるのはおかしい。子どもを持たない理由としてその子どもが苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしいというわけではない。

iii) 回顧的利益の非対称性

苦しんでいる子供を存在させてしまった場合、その子どもを存在させてしまったことを後悔すること、そしてその子どものためにそれを後悔することは理にかなっている。対照的に、幸せな子供を存在させることができなかった場合は、その子どものためにそのできなかったことを後悔することはあり得ない。

iv) 遠くで苦しむ人々と存在しない幸せな人々の非対称性

私達が遠くで苦しんでいる人々のことを悲しく思うのは当然だ。それとは対照的に、無人の惑星や無人島、この地球のほかの地域に存在していない幸せな人々のために涙を流す必要はない。

 誕生についての子の「同意」の欠如を指摘する権利的な立場

自己決定権にもとづき、子の同意のない出生は権利侵害であるとする立場である。「ロングフル・ライフ訴訟」などに関連性が見出される。

Wrongful life訴訟とは「子が先天性障害を持って出生した場合に(……)子自身が、医師の過失がなければ、障害を伴う自分の出生は回避できたはずである、と主張して提起する損害賠償請求訴訟」を指す(丸山英二,1995)

「ロングフル・ライフ訴訟」では、障害をもつ人々が、自らの生の不幸に基づいて、こうした出生には本来同意しなかった、と主張するのが主なケースである。良い生と悪い生を区別することから功利主義的な側面を含むように見えるが、重要なのは、ある生の状態について子が同意をしないということである。差別的であること、また生に不満をもつ人々の訴訟がすべて認められてしまえば、社会にあまりに大きな影響を与えてしまうことから、請求の多くは否定されている。また、存在と非存在の状態を比較することについて、次のような批判が加えられている。

確認しておけば、ここで問題なのはPそのものではなく、Pと¬Pに共通の前提である。生の価値に肯定的な¬P:「(私は)生まれてきてよかった」「私を産んでくれてありがとう」といった言明もまたPと同様の理由で無意味だが、P以上にポピュラーであることは周知の通りだ。さらに手が込んでいるのは、妊娠中絶の倫理的是非をめぐる議論にしばしば登場する、「もしも私が中絶されていたら……」という前件の下に語られる言明の類である。これもまたある意味で無意味な言明である。胎児は未だ「私」ではなかったのだから、それが中絶されていたとしたら、そもそも話者である「私」は一度も存在しなかった。仮に、その胎児がすでに発話者と同じ「私」であったとすれば、これは殺された「私」が語るということになり、〈霊界からの通信〉の類と同じお話であるということになる。いずれにしても、存在している「私」にはそのような話者としての地位は与えられていない。一般に、存在者が非在者として語ることはつねに「騙り」である。もしも私が存在しなかったら、私はこう考えていただろうという言明は虚しい。(加藤秀一「「生まれないほうが良かった」という思想について―Wrongful life訴訟と「生命倫理」の臨界―」,第76回日本社会学会大会シンポジウム・報告要旨<http://www.arsvi.com/2000/031013ks.htm>最終アクセス2020/06/01)

より厳密な権利主義の立場では、たとえどれだけ生に満足していたとしても、同意なしに誕生させられたという事実は自己決定権の侵害であり、暴力的であると主張する。非存在から同意をとることは不可能であるから、いかなる出生をも非道徳とする立場である。これは障害を含め生の良し悪しを問わないので差別的でない。そしてそもそもPと¬Pの比較の必要がないため、加藤の指摘に対しても有効な反論となり得るだろう。

 

VS.反出生主義

ここまで紹介した論拠を4つにまとめて、それぞれに批判を加えてみよう。

  • 負の功利主義に基づく立場
  • 苦しみと幸せの非対称性に基づく立場
  • 産まれるに値する命と、そうでない命を主張する立場
  • 同意を得られない生殖はいかなる場合もすべきでないとする立場

 

1と2についてまず思いつくのが(功利主義一般について言えることだが)、「快」「不快」「良い」「悪い」をめぐる形而上学的な反論だろう。3については、前述したように、優生思想的な側面をもつことがあげられる。4について、およそ権利というものは存在するものによって支えられるフィクションであり、これまでに存在する者の力によって歴史的に獲得された概念であることから、非存在がそれを獲得することは難しいのではないか、ということが言える。(ただし我々が非存在の権利を認めるフィクションを何らかの理由で支持するならこの限りではない。また、「存在し始めたら必ず権利が侵害された状態になるもの」の出生を、存在者の権利のみに基づいて予防的に阻止するということは、おかしいというわけではない。)

倫理の実践の問題

またなんらかの論拠に基づいて、生殖をしないことが道徳的であることを認めた上でも、「なぜ私達は道徳的であらねばならないのか」という問いは解決されない。道徳が「すべきこと」として定義されるのであれば、定義からして「なぜ私達は道徳的であるべきか」という問いは「なぜすべきことをすべきか」という一見無意味な問いへと変換されてしまう。しかし、これを簡単に退けず、根本真理をめぐる議論へつなげることもできる。

およそ証明とは、なんらかの物事に根拠を与える手続きである。根拠を与えられるその物事は、それ自身根拠ではありえない。したがって物事の根本ではない。逆にいえば、物事の根本は物事を根拠づけうるが、それ以上の根拠によって根拠づけられることはない。それ以上さかのぼる根拠がありえないからこそ根本真理だからである。ゆえに、根本真理は原理的に証明不可能である。(『カント入門』石川文康,1995)

ただこうした、カントでいうところの定言命法をめぐる議論に立ち入ることは、論題から少々逸れてしまうので避け、紹介程度にとどめる。

もう一つ指摘すべきことは、倫理という領域の成立に、「自由意志」の存在が前提されねばならないということである。自由意志を否定する論拠として、神学的な決定論や、因果的決定論、今日よりポピュラーには、物質的決定論などがあげられるだろう。

…もしこの世におけるすべての出来事が自然必然の因果法則によって貫かれているとすれば、すべてがこの法則によって決定されている。それは決定論を、また宿命論をもたらす。スピノザ説はその代表例である。もしそうであるとすれば(意志の)自由はない。その場合、行為の最終的な責任主体もないから、人間の尊厳もない。どんなに凶悪な何罪が起こっても、犯人には罪は帰せられないどころか、「犯人」という概念も「罪」という概念も意味をなさず、すべて「宿命」の一言で片づけられ、被害はすべて災難(天災)と呼ばれることになってしまうであろう。(『カント入門』石川文康,1995)

そもそも倫理自体を否定する立場に置いては、反出生主義は不可能な取り組みとなる。

反出生主義と出生主義の二項対立を超えて

ここまで論拠をある程度明確に、実践の要求としての反出生主義を論じてきた。ところで彼らは厳密には、反出生主義から出発するのではなく、負の功利主義や権利主義の議論の結果として反出生主義の立場をとっている。たとえば、生まれて死ぬまで苦を感じないという主体を仮定すれば、ベネターやスマートはそうした存在の殺害を正当化できないし、その存在の誕生について否定することはできない。しかし、苦痛を感じない主体とは、本当に存在していると言えるのだろうか?こうした議論は終わりがないので避けよう。ここで言いたいことは、反出生主義が絶対的な実践要求でないなら、反出生主義と出生主義の二項対立を崩してもっと柔軟な議論ができるのではないかということだ。ここでは少々論拠が曖昧になってくる。全体主義の否定から存在論的へと話をすすめ、修辞的な詩や断章によって書かれたテキストも紹介したい。

 全体主義との闘い

エーデルマンは『未来なし』で、保守にせよリベラルにせよあらゆる政治的なものの領野が、望まれるべき未来とイコール化されている「御子(the Child)」という警鐘を自らの限界にして構成されていることを指摘し、このような「御子」の保存とそれへの不可能な同一化を通じて私たちの生/性が構築されることを「再生産的未来主義」と呼んで批判した…そしてエーデルマンは、たとえば同性愛者を現在の未来の秩序に迎合させるのではなく、このように社会の外部に追放されるクィアの現今の社会に対する否定性をラディカルに受け取るよう示唆する。(「クィア・ネガティヴィティの不可能な肯定 ―固有/適切でない主体の脱構築的批評」『ジェンダーセクシュアリティ11,2016)

 

エーデルマンによれば、クィアネスは社会秩序を肯定するためのあらゆる「(再)生産性の信仰」に対立する、という点において、右派/リベラルという対立性の「政治」そのものに対立する。…クィアセクシュアリティは、社会的、象徴的な意味での契約の根本的な破壊を志向し、未来の再生産への基盤的な信仰を破裂させることによって国家秩序を再定義する。その意味でそれは、「未来は子供だまし」であると主張する意思、「未来はここで終わる」と主張する意思なのである(「生に抗って生きること」木澤佐登志,『現代思想47,2019)。

エーデルマンは、未来に来る「御子」への同一化を「シニフィアンの裂け目を埋めようとする持続的な幻想」であり不可能なものであると主張する。そうして提唱されるクィアな生は、ホモ・サケル的な「剥き出しの生」と類似している。

ホモ・サケルとは古代ローマの古法に登場する存在で、何らかの処罰を受ける者である。とはいえ、このホモ・サケル―聖なる存在―と呼ばれた者には、法律が適用されない。すなわち、法的秩序の外部に遺棄された存在として、殺害しても処罰されないが、神に犠牲として供することもできないものである。(木澤,2019)

 

生はその本来性において、どこまでも無根拠、すなわち無底である。だが今では生は意味付けされ、解釈され、価値という尺度のもとで計算され、その結果、生はひとつの負債となんら変わることのないものと化している。負債を支払う能力を量る尺度、それが「生産性」と呼ばれているものである。(木澤,2019)

こうした主張は、全体主義をきらい、「剥き出しの生」を志向するがゆえに、存在論的な意味を帯びてくる。意味付けされず、未来を志向しない、怪物の誕生である。

反出生主義は、ニーチェ的な価値転換を、言い換えれば、いかなる超人の誕生も歓待しない。反出生主義は人間の「乗り越え」を志向しない。反対に、それはどこまでも人間からの倒錯的な「逸脱」を、怪物への生成変化すらも厭わないほどに志向する。そう、それは始源に至る祖先の系譜という、「この生」にとっての可能性の条件=超越論的原理からの意図的な切断と、離脱を試みるという点で、まさしくフランケンシュタイン的な怪物の誕生を予言する。(木澤,2019)

奇蹟の地獄

生には何の意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる(シオラン『呪詛と告白』,出口訳,1994)

 

…[不眠の]危機のあまり、私はベッドに身を投げてこう言いました。「もうだめだ!もうダメだ!」。すると司祭の妻であった母が私にこう言い返しました。「もし知っていたならば、堕胎していたのに」。このことは突然私に巨大な喜びをもたらしました。(ガブリエルリーチェアヌとの対談、大谷訳)

 

自分がまぎれもないひとつの偶発事にすぎず、自分の生を真面目に考える必要のないことがわかったからです、それは解放の言葉でした。(シオランシオラン対談集』,出口訳,1998)

クィアな生に特徴的なのは、それが死を望むというよりは、「無意味な生」という一つの生き方を提唱することである。クィアな生においては「今、生きている」というのが必然的で必要な出来事ではなく、「今、生まれて来ていなくてもよかった」「今、死んでいても良かった」と考える。それは「御子」を必要とせず、主体それ自体として完結した「生」である。

シニフィアンはそれ自体としては価値をもてず、他のシニフィアンとの差異によって意味が生じる。したがって、逆説的には、解釈可能な意味を持つシニフィアンで語られる主体はそれ自体としては無意味である。一方で、解釈不可能で物質的な主体は、他のシニフィアンと連鎖していないそれ自体で完結したシニフィアンである。これは耐えがたい無の地獄でありつつも、非常に強烈な力を持つ奇蹟である。この主体の様子は、ラカンのいう<一者>のシニフィアンに関連性が見いだせる。

自閉症者がもちいる「狼!」のような反復的シニフィアンは、ほかのシニフィアンと連鎖していない(=分節化されていない)シニフィアンである。このようなシニフィアンしか存在しないことは、「彼が現実界だけを生きている」ことを示している。このようなシニフィアンは、ほかのシニフィアンへと回付されることができず、それゆえ子供は、自分でもこのシニフィアンの意味を理解することができず、困惑に陥ってしまう。つまり、このシニフィアンは、「<一者>のシニフィアンsignifiant Un」に相当する。

このシニフィアンは、単に単語であるだけでなく、むしろそこには享楽が一体化している。ロベールの場合、「狼!」というシニフィアンは、耐えがたい穴の出現というトラウマ的な出来事を刻み込まれたものであり、先に検討した「ララング」の性質を持っている。そして、この<一者>のシニフィアン=ララングは、他者とのコミュニケーションにはまったく役に立たず、むしろ各々の主体が自体性愛的な享楽を独自に得るためのツールとしてもちいられている。(松本卓也,2015)

ここで、反出生とは単なる論理パズルではない。それはシニフィアンの系譜に叛逆する、大きな無の穴である。

それは終わりを目指し、終わりを反復し、そしてそのつど終わりを再開する。また終わるために。内在―ひとつの生…。(木澤,2019)

そして反出生とは、(何かを主張するという行為の主体は、既に存在しているから)存在者によってのみ主張される言説である以上、終わりのない、または終わりを知ることができない志向である。それは生に内在し、存在者のとなりに、常に生じる無の穴の一つである。

 

(論考おわり)


 

 

 

 

個人的な反省点

・「証明できる根本真理がない、不確実性下での実践はすべて無根拠な飛躍であるから、もし何らかの良い結果を目指そうとするような実践的な倫理感があるならば、何もすべきではない」というあたりの言説も紹介したらよかったかもしれない。

・ジャック・リゴーや中島らもあたりが言う「人生には死ぬほどの意味もない」という表現も引用すると良かったかもしれない

・座談会で竹田さんから言及された、倫理を持つことによって存在者にとって良いこと(「良い生」についてのこと)を、もっと頑張れば説明できるような気がする。(今後の展開に期待)

 

ということですが、なかなか拙い内容でしたが得るものはあった気がします。今年中に次のができたらいいですね。

 

次回は雨木さんの発表の予定ですが、もし準備に時間がかかれば、穴埋めに討論会を開催するとかもあるかもしれないです。お楽しみに!

 

すみれの会

野行

初回討論会をしました



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討論会動画で使用した画像

こんにちは!すみれの会の野行です。

2019年5月20日18:45より「モノ化とは何か?」というテーマで、公開討論会をしました。本来校内で開催予定でしたが、緊急事態宣言に基づく校内立ち入り禁止により、zoomでメンバーが対話し、youtubeライブ配信をするという形で開催いたしました。

 

モノ化という概念を動物や労働などにも拡大し、その事例、グラデーション性、排除の難しさなど、みなさんとても自由に話してくださいました。

そこから様々な話題に発展ししましたが、とりわけ後半の「愛」や「結婚制度」の話は盛り上がりましたね。マロンさんが「うれしくさせる対象」としての「愛」についてお話している中でとりあげた図です。

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九鬼周造『「いき」の構造』岩波

竹田さんから科学や進化論などの視点からの意見もありました。

みなさんとても頑張ってテーマに迫ってくれたと思います!

 

次回は野行による論考発表です。またツイッターで日時を発表いたします。

おたのしみに!

 

すみれの会

野行